南野 尚紀
『オン・ザ・ボーダー』という中上健次のエッセイ、対談集には、彼と村上春樹の対談が載っている。
1980年代の半ばくらいに行われた対談で、物語論、日本、アメリカなど、その時、特にホットだった話題が取り上げられていて、敗戦後、アメリカや日本の文化とどう向き合っていくか、という今も日本が抱えている問題に真摯に挑んでいる2人を見ると、心の中に潜んでいる議論するよろこびに火がつく。
中上健次は、エスニック・アメリカンに関心があるらしく、彼が追い求めていた民族のルーツに海外でもこだわっている。
それに対して、村上春樹は都市独特の階級意識、表層性にこだわりがあり、北海道に関しては、歴史の浅さに関心があると言っていた。
村上春樹よりも40歳くらい下の世代の文学をやってきた僕からしてみると、割と当たり前のことを話しているけど、当時の人がアメリカでいろんなものを目にして、語り合ってる姿は特別な迫力がある。
「その国の伝統は何か?」と問われた時、ヨーロッパ以外の国々というのは、それを答えるのが難しい場合が多い。
もちろん、ヨーロッパも難しいけど、歴史の浅さや、曖昧さゆえに、ハッキリしたルーツが見出しづらいというのが、ヨーロッパ以外の国にはあり、アメリカの場合は、自由を標榜したイギリス人が開拓した国なので、伝統の基底にリベラリズムがある。
そうなると、そもそも伝統より自由を重んじるので、歴史を壊して、新しいものを作ることは積極的にする。なので、その国の伝統が見えない。
トランプ前大統領が、今も大統領選で掲げている大きなテーマは、明らかにアメリカらしさの再構築だ。
僕はアメリカの歴史をよく知ってるわけじゃないが、トランプを見てると、1980年代の本当に強かったレーガン大統領の頃のアメリカを取り戻したいんじゃないか、ということを思う。
『ロッキー』や『ランボー』に象徴されるような、敵と戦い、自分の国を守り抜くという意識の高い、本当に強い者の味方ができるアメリカだ。
中上健次が好きなアメリカはブルージーなアメリカで、粗野で、生き抜く意思があればほとんどだれでも寛大するアメリカのイメージ。そういう気風を失わせるアメリカ在住の人間には厳しいが、慣習や細かいしきたりに縛られない姿に関心が深かったようだ。
村上春樹が好きなアメリカは、ニューヨークなどの表層性を重視するアメリカで、重々しくない、軽くて、それでも実があるアメリカなんだろう。
こういう言葉では括りきれないくらい、アメリカの文化っていうのは、多様なんだろうけど、僕はトランプが描くアメリカらしさに関心があるし、石原慎太郎はその実、1980年代のアメリカのイメージに完璧に追従するわけじゃないけど、彼なりに追従していた。
フィレンツェに住む予定の僕は、なんでアメリカを選ばなかったかというと、美学的な意味で、どうしてもフィレンツェが好きだったからだ。
あの街の人と話すと、美への敬意、伝統に由来する安心感、生活の安定を大切にする老成した価値観が感じられて、これに替えられるのもはないな、と深く感じる。
それなのに、なぜ僕がトランプの描くアメリカらしさに憧れるのか。
理由は単純で、強くないと安心する生活は守れないからだ。
今、メローニ首相がイタリアの伝統を守るために、移民政策や外交政策をはじめ、保守的な政治を行っている。
僕も若い頃は、村上春樹のように、都会の軽さを含んだ享楽的な生活や、重々しくない気軽なコミュニケーションに関心があったけど、それも一時期だった。
伝統由来の厚みのある精神的な人との繋がりや、存在論的な理由が深い美は、真に美しく生きるために必要だからだ。
余談だけど、村上春樹はこの対談で、経営してたジャズ喫茶に編集者がたくさん来てたとか、熊野から奈良を寝袋を持って歩いたことがあると言っていた。
熊野を歩きながら、どんなことを考えていたかは知らないが、心の内にある他者について考えていたのかもしれない。人づきあいの深い部分を求めない分、内省の時間をしっかり作る彼は、本当のシティボーイだと思う。
村上春樹が今後、今の時代に蔓延してるディスコミュニケーションの負の要素とどう向き合っていくか、あるいは、新しい境地を切り開けるかは、村上春樹好きの僕としては関心がある。
了
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