南野 尚紀
1.イントロデュース
永遠の愛とはなんだろう。僕はこの問いを考えるのが好きだ。もちろんこの小説は恋愛小説としては書かれていない。なぜか現代文学、特に日本の現代文学は、恋愛の問題として捉えてもいいものを、恋愛の問題として捉えないで、他のテーマ、モチーフにスライドされることが多い。
「象の消滅」の背景にある、というより、本来据えられるべきだったテーマは、永遠の愛についてなのだろう。それは古典から受け継がれている喜劇的な愛。
恋愛や結婚には、美や美学は必須である。
それは美しく世界を形作るために、神に近づくため、神の世界に近づくために必要なことだからだ。
一見、「象の消滅」とどう関係があるのか、わからない読者もいるかもしれない。
しかし、見識が自分の運命的な意味での人間関係、仕事を決定づけることも多いので、敢えて、恋愛の問題として、この作品の奥にあるものを類推することにする。
本論はこのことを前提で書いているが、村上春樹はあの人に対してはこう感じていて、別に作品に書かれているあの人に関してはこう感じているんだなという部分を知ること、彼の存在論を知ることが、村上春樹作品の重要な点であり、よろこびでもあるので、そこにスポットを当てて語っていくことにする。
2.作者紹介
一九四九年京都生まれ、兵庫出身。早稲田大学卒業後、東京の国立でジャズ喫茶「ピーターキャット」を経営する。一九七九年、初めて書いた中編小説『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞。一九八二年、『羊をめぐる冒険』で野間新人文学賞を受賞。その後も数々の賞を受賞し、二〇〇六年にはフランツ・カフカ賞も受賞。
代表作に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『海辺のカフカ』、『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』、『騎士団長殺し』がある。
海外移住や旅行経験も豊富で、英語が堪能。翻訳者としても有名で、多くのアメリカ文学の小説を日本語に翻訳している。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を敢えて、英語名の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と翻訳し、タイトルをつけたことは、文学の世界では有名。
初めて書いた小説、『風の歌を聴け』は一度、新しい文体や雰囲気を発見するために、英語で書いた文章を日本語に訳して、賞に投稿した。
3.あらすじ
東京のとある町に象舎ができた。街の動物園が潰れたが、引き取り手がないアフリカ象をどうにかしようと町が検討した挙句、野党や住民の反対を乗り越えて、象舎を作り、アフリカ象を飼育員に飼育してもらうことにしたのだ。
しかし、その象と飼育員がある日、突然消えた。
町、日本政府、メディアなどは、飼育員がなんらかの方法で、象とともに逃亡したのだ、秘密組織の仕業かもしれないなど、現実的な視点から、捜査を進めたが、象と飼育員はどこにも見当たらず、事件は迷宮入りする。
ある日、新聞やテレビなどで象が消えた事件を追っていた、電気機器メーカーの宣伝を仕事としている男性は、展示会で女性と出会う。
「キッチンは統一性、便宜性が重要」と言う彼に、彼女は「なぜ」と聞くが、彼は「商売と、統一性、便宜性の以前にある要素は関係ないから、そういうものは商品にならない」という内容のことを話す。
彼は彼女と意気投合し、ホテルのカクテルバーに行くが、そこで象の事件について話す。
彼女が象の事件について、詳細を聞きたがるので、彼は詳細を話し、さらには、象舎を見下ろせる位置が近くの山の道が通ってない箇所にあって、その場所からよく象と飼育員が仲良くしてるのを見てたと言うことを話す。
それだけでなく、象の目撃証言があった最後の時間の後、彼が象と飼育員を見ていて、象と飼育員の大きさのバランスが逆転していくのを見たと言うことまで、彼女に伝える。
結果、彼女は「猫が逃げちゃったことはあるけど、象の話とはまた違うもんね」ということを言い、2人は解散し、それっきり会わずに、彼は統一性、便宜性を重視しながら、仕事をし、社会的信頼とお金を得たというところで話は終幕。
4.本論
言うまでもないことだけど、ここに出てくる象は明らかに、ある特定のモノの象徴であり、つまり比喩として代表された象だ。
僕は比喩というものがあまり好きでなく、論理で物事を話す時に、多少の例え話が混ざってくるくらいは好きなのだけど、比喩が先行する話というのが好きでなく、文学作品での好みも明らかにそういう傾向がある。
比喩はほどよく使えば、神秘性が出るけど、度を越すと卑怯さにつながるという美学が僕の中にあり、そこに普遍性もあると感じているからだ。
しかし、論理的な言葉では言い尽くせない、個体性というのが比喩には内在されていて、多義的な解釈が成り立つから、そこに広がりが出るということも言えるので、ほどよく使うという言い方にとどめている部分もある。
たとえば、ダンテが好きだったベアトリーチェは、女性が好きだった女性だとされていたり、ダンテに冷たくする女性だったりするなど、いろんな言葉で表現されることで、その人物像が浮かび上がるし、人は現実に存在する人間のタイプや法則、つまり経験則で、その人物像をより浮かびあがらせることができるが、ベアトリーチェはベアトリーチェでしかないし、他のモノで代替しようとしても、モデルとして考えた時に、代替は効かない。
つまりそのものが含む要素、代表できる要素とできない要素の領域が、唯一無二であることに比喩の重要性があり、もちろん、老象の限定のされ方は普遍的だから、ベアトリーチェとはわけが違うけど、昔流行ったあるなしゲームのように、象にあって、パンダにないとか、象にあって、インドにないとか、連想ゲームのようにして要素を割り出すこともできる、固有の要素に比喩の価値はあるだろう。
論理的な言葉にも、固有性はあるが、ベアトリーチェには敵わないだろう、ということで、この説明は終わりにするけど、この問題はもし気になったら、深く考えてもいいとお僕は思っている。
小説に出てくる象をめぐる問題はいくつもある。
結果として、町の人気者になったし、イメージアップにもつながったし、教育、美術のモチーフなどとして、いろんな意味で輝いていた象が、最初は野党や多くの住民の意見で反対されていた、それも後半で主人公が話しているような、お金や便宜性の問題で、反対されていたということは本作を考える上で重要だろう。
それ以上に重要なのが、あれだけ便宜性というものを重視してた地域や国が、明らかに害がなさそうな老象と飼育員のためだけに、自衛隊まで派遣して、捜査をして、その象と飼育員を捕獲しようとしたという、矛盾である。
他に重要な問題は、象と飼育員の大きさのバランスが逆転していったのを主人公が目撃しているということ、それを打ち明けた女性、その女性との出会い方のムード、主人公が警察と関わりたくないと思ってるという事実、これらは、この小説の固有性、つまり「象の消滅」らしさを形作ってる部分だろう。
主人公が経験した統一性、便宜性を図るとお金が儲かり、社会的な人気が出ることと、象の存在の価値が正反対であるような気がするのは、僕だけではないだろうし、Firenzeにいるとそれを感じることがよくある。
美学とは、捉えようもない美しさ、個性、美、女性性を重んじる人らしさの本質、根源、神話性をめぐる議論、熟考の結晶であるわけだけど、安直な、社会に理解されやすい統一性、便宜性、とは相容れないものだという事実があり、それを街から感じるのだ。
そこが美学と倫理の大きな違いなのだろう。
僕も警察は嫌いだが、軍警察は好きで、軍警察の方が、安直に社会に理解されやすい統一性、便宜性が重視されない、つまり美学的な意識が高いと感じるからなのだろう。
美しく生きるとはなにかという問いやその結果は、軍警察の方が深く出ている。
それに軍警察も統一性は重んじるが、それが安直ではなく、崇高さを秘めていることがほとんどだから、好きなのだろう。
あまり多くは描かれてないが、主人公とカクテルバーでお酒を飲む女性は魅力的だ。
ふつうの男女が関心を持たない象の話を男女2人っきりのバーでしたがるところとか、社会常識はありそうなのに、統一性、便宜性に懐疑の念を抱いているところとか、猫と象の話を引き合いに出してみるところとかが言いようもなくいい。
結婚寸前までいって、今でもいちばん感謝してる女性、仁美さんをエッセイに書こうとすると、なぜかこっちが多くを話し、相手は聞き役や質問役に回るという書き方をしてしまうし、実際にはもっといろんなことを積極的に話してたし、むしろ質問をすることが多いかったのは彼女なのに、エッセイで書くとそうなってしまう、でも教えるのは好きだったとか、いろんなことを思い出すんだけど、この小説の女性の描かれ方も似ている部分が多い。
こういう捉えようのない美やそれにまつわる問題は、社会からはなぜか厳しく排除される傾向にある。
もっとも東ヨーロッパだけは、その例外のようだけど。
この小説の欠点は、この女性、象や飼育員の描き方がまだ浅さにあると僕は思うし、もちろん村上春樹は、推理小説や都市伝説風にこの物語を新しい観点から描きたかったんだろうけど、それは世界の成り立ち、美学の根本原理に反するからよくはないんだろう。
村上春樹には特にテーマだけに集中して、小説やエッセイを書いてほしかったけど、テーマ主義が嫌で、モチーフを重視するとは話していたから、そこは残念だ。
それにしても、仁美さんはなにやってるのだろう。
今度、似てる人にあったら、ぜひ結婚したけど、会えるかなぁ。
5.参考文献
村上春樹 『パン屋再襲撃』所収「象の消滅」 文春文庫
了
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