南野 尚紀
村上春樹のエッセイ集『村上朝日堂の逆襲』には、「交通ストについて」というエッセイがある。
内容はわかりやすくて、昔、日本に交通ストライキがあった頃の話だ。
ジャズ喫茶をやってた頃、お客さんが来なくて迷惑した側面もあるけど、原宿から渋谷、代々木から新宿を散歩すると街がしんとしててよかったり、中央線沿いの自宅の横の線路で、寝そべったりしたこともあったらしい。
僕は交通ストを経験したことはないけど、イタリアでは今でも交通ストがあって、観光のアテンドをしてもらった日本人に、「この日は交通ストがあるから、気をつけた方がいいですよ」と言われたりすることがあった。
偶然、電車に乗る日に、交通ストがあったということはないので、困ることはなかったけど、確かにどうしても移動したい日に交通ストがあったら、迷惑だろうとは思う。
イタリア、特にトスカーナはそうなんだけど、日本よりものんびりしている。ニューヨークに比べたら、もっとのんびりしてるかもしれない。
これは僕の推測だけど、イタリアは軍警察が警察を見張っているのと同じで、一般の人が仕事をしすぎる人や、仕事を人に与える側の経営者などの行き過ぎを見張ってるということがあるのだろう。
やさしく言えば、がんばりすぎはよくないよということでもあるし、イタリアは英雄や芸術家など偉大な人を多く輩出した国でもあり、南国的平等万歳じゃないが、みんなが誇りを持って生きている部分がある。
みんなが誇り高いがゆえに、いい民主主義が成り立つと言ってもいいと思うが、民衆の誇りを傷つけないために交通ストがあるんじゃないかと思う。
戦って上を目指すのもいいけど、時間を使って物事をじっくり考えたり、愛する人を大切にしたり、恩寵に生き、隣人を大切にしたりする時間も大切だ。
社会的説明責任を果たすことは大切だけど、人間、ヒマに過ごす時間も大切で、すべてが社会の側の都合で統括されすぎると、生きるのが辛くなったり、クリエイティヴじゃなくなったりすることはある。
村上春樹がエッセイで書いてることより、だいぶマジメな話になってしまったけど、イタリアで今でも交通ストがある理由は、そういう文化的な背景があるんじゃないかと思う。
共産党の影響で、悪い印象がついてしまったが、民衆が国の伝統を信じてくれていれば、労働者の立場を守るということは、それ自体は悪いことじゃない。
労働者だって、誇り高く生きたい人も多いはずだ。
いずれにしても、労働者のこと以上に、イタリアは恩寵にも生きるべきだということで、神に見守られている国でもあるんだろう。
遊びや楽しむことも人生には必要だから。
了