こんばんは。村上春樹です。

 それはもちろん冗談ですが、ここでは村上春樹がどんな人かをわかりやすく、Wikipediaとは少し違った切り口で紹介したいと思います。

 村上春樹を少ししか知らない方には、マニアックな内容も含んでますが、他のエッセイや評論を読む上では、あるとわかりやすい情報なので、ぜひ読んでいただきたいです。

 村上春樹は、1947年、なので第二次世界大戦が終わって、2年後ですね、京都に生まれました。

 そして、幼い頃に、神戸市の芦屋に引っ越してきます。

 村上春樹が学生時代によく通っていたと言われる、ピノッキオという神戸のイタリアンレストランは、今でも営業してます。

 両親は国語教師で、父親は仏教のお坊さんでもあったそうです。

 神戸の街に住んでた頃や一時帰郷した時のことをモデルにしたと思われる小説はいくつかあります。

 『風の歌を聴け』、『カンガルー日和』所収「5月の海岸線」、『一人称単数』所収「クリーム」などです。

 内向的な学生だったそうで、ポップスやジャズやクラシックなどの音楽を聴いたり、難しい小説を読んだりするのが好きな学生だったとエッセイや対談では話しています。

 大学は早稲田大学の文学部演劇科に入りますが、当時、映画のシナリオを書きたいと思ってたということだそうです。

 学生闘争で大学が閉鎖されたり、当時やっていたフルートを使って学生寮で友だちとセッションしたり、喫茶店でアルバイトをしたり、講談社の編集者でもあった村上陽子と結婚したり、いろいろあった大学時代だったようですが、卒業後は「ピーターキャット」というジャズ喫茶を国立で経営します。

 村上春樹が村上龍との対談で話している話だと、経営してる頃は、文芸誌などの編集者が多く集うジャズ喫茶だったそうです。

 その後、神宮球場でヤクルトの試合を見てる時に、作家になりたいと思い、ジャズ喫茶を経営しながら書いていた小説『風の歌を聴け』が群像新人文学賞を受賞し、受賞後も数々のヒット作を出版します。

ジャズを経営してる頃の後半は、あまりカウンターはアルバイトの人に任せて、裏方をやりながら小説を書いてたのだとか。

 英語で書いた小説を日本語に翻訳してできた『風の歌を聴け』ですが、丸谷才一の後押しがあって、受賞したこともあるそうです。

 しかし、当時の選評を見ると酷評されています。

 奥さんの村上陽子が講談社の編集者だということやジャズ喫茶に編集者が多く出入りしてたことも考えると、なにか受賞と関係がある気はしますね。

 戦後生まれで初めて芥川賞を受賞するのが中上健次なのですが、「中上健次以降の日本文学は、文学じゃない」という人が専門家の中にはいるそうです。

つまり、戦後生まれの作家として、当初脚光を浴びていた村上春樹ですが、1976年に『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞した村上龍とともにダブル村上と呼ばれたり、村上春樹、村上龍、高橋源一郎の3人の作品をポップ文学と呼んだりする人もいたそうです。

 この言葉は、都市の潮流を捉えたり、高尚なものの地位をポップに軽くする文学という意味を含んでますね。

 『ダンス・ダンス・ダンス』の前後から、作風が少し変わり、読書好きの学生の気分を引きずってるような雰囲気を抜け出し、中期の『ねじまき鳥クロニクル』を経て、『海辺のカフカ』以降から、比喩で世界の構造を捉えることに今まで以上に専心した作風になっていくのですが、どこかで青春の香りがするのは昔から変わってないですね。

 ポストモダンの旗手とも呼ばれ、表層に浮かびたっている記号で遊ぶこと、吐露すべき内面がないという前提の表現をすること、外面の強度を重視すること、などポストモダンの特徴を見事に反映させた作風で作品を書いています。

 その後は、ギリシャ、イタリア、イギリス、アメリカに移住したり、プリンストン大学で客員教授をやったり、猫と戯れたり、レコード屋でレコードを漁ったり、マラソンに熱中したり、水泳をやったりと作家活動をしながら、側から見ると幸せそうな生活を送っています。

 個人主義で、シニカルで、知性的にマッチョな村上春樹は、世界中で愛され続けています。

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