南野 尚紀
『騎士団長殺し』の冒頭に、主人公の男が車で高速などを乗り継いで、東北をあてもなく運転し続けるシーンがあるけど、その中で、彼はシェリル・クロウをカーステレオで流し、「シェリル・クロウはいい」って考える。
シェリル・クロウはアメリカのケネット生まれのアーティストで、現在62才。
1993年にデビューアルバムを出すんだけど、その前には、マクドナルド、トヨタのCMのジングルを作ったり、カリフォルニアに移住して、ミュージシャン活動を行いながら、マイケル・ジャクソンのライブのコーラスに参加したり、アルバムリーリスが延期になったり、アーティストとしてデビューするまでは、長く曲がりくねった道を歩くような人生だったのかもしれないなと僕なんかは思う。
シェリル・クロウは当時のヒッピームーブメントのリバイバルとして登場した、ニューエイジの流れの中で出てくる。
ニューエイジの特徴はさまざまあるので、今後、別の機会に書いて、掲載することにしようと思う。
僕はシェリル・クロウのアーティストブックとかは読んだことがないので、歌詞の評論しかできないが、それを読んでいただいて、シェリル・クロウのことや、村上春樹が小説内のあのタイミングで、なぜシェリル・クロウを選んだのかを少しでも感じてもらうのもいいかと思った。
しかし、英語の歌詞まで掲載するとさすがに、著作権違反なので、オリジナルの日本語訳だけを掲載しようと思う。
ヒッチハイクしてたら
自販機の修理工の男と一緒になったんだけど
彼、言ってたよ
この道では2回も横転したことあるんだって
彼はハイレベルなインテレクチャリズム
そこに行ったことないけど、パンフレットはナイスな感じ
飛び込もうよ、さぁ
横になって、ショウを楽しもうよ
みんな、ハイになったり
みんな、ロウになったりしても
ぜんぶ、いつか過ぎ去るからさ
毎日は曲がりくねった道
終わりは近づいてる
毎日は色褪せたサイン
気分よくその終わりに近づいてるんだ
彼、娘ができたんだって
彼はイースターって呼んでる
彼の娘は火曜日に生まれた
あたしはどうしてひとりだって感じるんだろう
なんであたしの人生なのに、あたし自身を人生の異邦人だって感じるんだろう
飛び込もうよ、さぁ
横になって、ショウを楽しもうよ
みんな、ハイになったり
みんな、ロウになったり
ぜんぶ、いつか過ぎ去るからさ
毎日は曲がりくねった道
その終わりは近づいてる
毎日は色褪せたサイン
その終わりに近づいてるんだ
毎日は曲がりくねった道
その終わりに近づいてる
毎日は色褪せたサイン
気分よくその終わりに近づいてるんだ
あたしはアナーキーの海を泳いだことがある
あたしはコーヒーとニコチン日々を過ごしてたことがある
ぜんぶがほんとだったのか信じられない
でもそれはほんとに起きた
毎日は曲がりくねった道
その終わりに近づいてる
毎日は色褪せたサイン
気分よくその終わりに近づいてるんだ
毎日は曲がりくねった道
その終わりに近づいてる
毎日は色褪せたサイン
気分よくその終わりに近づいてるんだ(それはそのあいだにある)
以上が僕なりの翻訳だ。
中上健次の作品には、僕の大好きな「六道の辻」という作品があって、簡単に言えば、田舎に住んでる不良男が、盗みとか女性を働かせたりとか、平日の昼間から違法薬物をやったりとか、ナンパした女性と人を殺して、その時にセックスしたりとか、最後、飯場っていう土木工事の現場で働いてたら、目が見えづらくなって、間違えてハンマーで手を打ってしまい、自殺するという話なんだけど、教訓としては、ヨーロッパでは英雄のような扱いをされるはずの人が、日本の平和な時代の田舎に生まれると、周囲から嫌がらせを受けて自殺させられてしまうので、そういう気風は撲滅しようということだと思う。
実際に、日本にも海外にも時々、ローラみたいな、田舎で嫌がらせを受けて、都会に出てきて花開く美男・美女っていうのはいるけど、イメージとしてはそんな感じだ。
魯迅の「阿Q正伝」にも、田舎で生まれたから、英雄になれたのになれなくて、悪いことをしてないのに周りから非難される男が、最後、革命の失敗した方についてしまったことが理由で殺されてしまうっていう話があるが、「六道の辻」と共通してるのが、主人公ふたりが、熊と戦ったことがあるとか、こんな小さい困難をしたけど、意味がなかったという後悔が心にありそうだというところだ。
しかしこの歌は、「あたしはアナーキーの海を泳いだことがある」、「あたしはコーヒーとニコチンの日々を過ごしたことがある」って歌ってる。
イタリア首相のメローニもそうだけど、一般人で国のために生きて、亡くなった人を崇拝することが海外ではよくあり、この歌も実は、小さな一個人でも、幸せに生きたり、人生を謳歌したりしてることは、意味があることなんだっていうことを伝えたいような感じがどうもする。
サーファーとして、波を追いかけ続けて、ビッグーウェーブに乗るけど、歴史に名前が残らない人、コーヒーやタバコばっかり吸って、かっこよく生きた人もかっこよくても歴史には残らない人、世の中にはいろんな勇者がいる。
でも本当は、個性をよい心から尊重する人の人生は、閉じてしまってはいけないんじゃないか。
そんな声まで聞こえてきそうだ。
彼女は本当に旅が好きだっただろうし、ヒッピーとニューエイジに共通してる精神の旅を通して、心をキレイにするというも、彼女は相当、やったんだろう。
だからこそ、シェリル・クロウの言葉はキレイだ。
「なんであたしの人生なのに、あたし自身を人生の異邦人だって感じるんだろう」
これはとてつもなく深い哲学だと思う。
僕も時々、そう感じることが今でもある。
特に旅の途中や、夜、ウイスキーを飲んでる時、自分のことを考えてるはずなのに、いつも間にか、自分が好きな人とか好きだった人の手のひらの上にいたり、旅した街の上に乗っかって、じっと人間関係の相関図とか、言葉のつながりが書かれたチャートを眺めてああじゃないこうじゃないって考えてるような気分になることがあって、自分の人生が自分の居住地じゃない、どこか異国の地みたいになってしまう。
不思議なことで、そんな夜、この気持ちに寄り添ってくれる電話の相手がいればいいのにとか思うのに、いなかったりするから、村上春樹やアントニオ・タブッキの本を読みたくなる。
それはまるで、僕は偉大な、それでもやはり小さい夜の旅に出たんだってことを、証明するかのようだ。
シェリル・クロウの才能は、そういうところにある。
極大の神話と小さな歴史がキレイな言葉の中でつながって、その下を音楽が流れいてる感じは、いつ聴いても気持ちいい。
了
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