南野 尚紀
青春4部作のいちばん最後の作品、『ダンス・ダンス・ダンス』のはじめの方で、主人公の僕が、「月世界の女性と結婚して、月世界の子どもを作りなさい」と話す女性と別れた後、不可解な現象や不幸に巻き込まれて、部屋に引きこもり、ドライブしてる最中にいろんな60年代以降のロックやポップスを聴く中に、Simon & Garfunkelの名前が出てくる。
作中で主人公は、Simon & Garfunkelのことを「偽善的」と考え、なぜ偽善的なのかは考えずに他のアーティストの曲を聴く。
「コンドルは飛んでいく」しか僕は知らないが、この曲は大好きだ。
もちろん、Simon & Garfunkelには、「コンドルは飛んでいく」以外にもたくさん曲があるが、代表曲ということで、なぜ作中で彼らが偽善的と考えられたのか、そして本当に偽善的なのかを考えてみたいと思う。
ネットで英語の歌詞を見て、僕なりに意訳した日本語の歌詞があるので、まずはそちらから。
カタツムリになるくらいならツバメになりたい
そう、叶うなら
できるなら
確かにそうだ
爪にくらいならハンマーになりたい
そう、叶うなら
ただそうなりたいだけだ
確かにそう思う
どこか、航海に出たい
白鳥のようにここからいなくなれたら
男は地面に縛られ
彼は世界に悲しい響きをもたらす
もっとも悲しい響きを
道になるくらいなら森になりたい
そう叶うなら
もしできるなら
確かにそうだ
足元の地球を感じたい
そう、叶うなら
ただそうできれば
確かにそうだ
「コンドルは飛んでいく」は、時代的にもヒッピーを志した人の歌のようにも思える。
カタツムリのように殻にこもって、地面を這って生きる不気味な生き物になるくらいなら、ツバメのように空高く飛んで生きたい。
爪のようになにかを引っ掻くしかできないなら、鉄を打ち、人の役に立つ強さのあるハンマーになりたい。
道のように人に踏まれるだけなら、人里離れていても、静かに自然を守る森になりたい。
正統と思われる文学的読みで言えば、こういう解釈になるが、そこから彼らの歌手としてのスタンス、そして人生のスタンスがわかる気がする。
あまりはっきり言うのもなんだが、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公の男は、逆のスタンスで生きてるんだろう。
ライターの仕事で、ちょっとしか食べないで食べ物を残して記事を書いたり、行ったこともないのに映画だけ見て、その土地の女性のことを書いたりしてるけど、それに関して、本人はどう考えているのか。
もし主人公が「仕事だから仕方ない」と思うなら、彼らを偽善的と考えるべきではないし、少なくともそういう倫理的な矛盾を持ってる人間を正当性がある人間のように誤魔化して書く村上春樹は、その面においては酷い作家だ。
もちろん、他のエッセイで書いた通り、すぐれてる部分を多くある。
実際、村上春樹作品の登場人物には、女性をレイプしたらしいが、強引に正当化して、誤魔化す作品があるし、自分の罪業により、不幸に遭遇した可能性がある主人公の正当化、しかも、すべての作品を村上春樹作品として繋げて考えた時に、どう考えても悪い面がある。
僕も村上春樹のファンだけど、村上春樹の功罪については積極的に追求していこうと思うし、Simon & Garfunkelのように、真摯な言葉で表現できるヒッピーを僕は尊敬もする。
了